像高147.2センチメートル、ヒノキ材寄木造(よせぎづくり)で、表面は素地(そじ)仕上げです。顔の表情や衣文などの特徴に運慶(うんけい)風の様式がみられ、運慶の作風を学んだ慶派(けいは)の仏師の作品で、鎌倉時代中期(13世紀半ばころ)の製作とされています。
この仏像は、像高147.2センチメートル、ヒノキ材の寄木造(よせぎづく)りで目に玉眼(ぎょくがん)をはめ込み、表面は素地(そじ)仕上げです。螺髪(らほつ)を施毛型(せんもうかた)に彫り出し、肉髻珠(にっけいしゅ)、白毫相(びゃくごうそう)を表しています。衣は、僧祇支(そうぎし)・偏衫(へんさん)・衲衣(のうえ)を着け、裳(も)をはき、両腕のひじを曲げ、左手に薬壷(やっこ)を持ち、右手は五指を軽く伸ばして立てています。
螺髪、目鼻や口、さらに耳の彫りが丁寧で引き締まった表情や切れ上がった目尻、衣文などに運慶(うんけい)風の様式が見られることから、運慶の作風を学んだ慶派(けいは)の仏師によって鎌倉時代中期の13世紀半ばころに製作されたものと思われます。
等覚寺(とうかくじ)は法雨山等覚寺といい、曹洞宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。寺伝によると明徳元年(1390)ころの創建で、はじめ成就院と号しましたが、のちに等覚寺と改めたといわれています。
境内には、江戸時代初期(寛永9年(1632)から元禄11年(1698))に銚子地方を領地した松平氏代々(二から十一代)の墓があります。