高さ70.3センチメートル、口径50.6センチメートルの三段組の構造です。銘文には、上総国菅生庄本郷飯富宮社頭とあり飽富神社(現在の袖ヶ浦市)に所在し、製作年代は、享徳11年(1462)の銘【享徳11年は寛正3年にあたる】が刻まれています。この鐘が、いつ、だれによって飽富(あきとみ)神社から圓福寺へ運ばれたかという由来はわかっていません。
この梵鐘は、高さ70.3センチメートル、口径50.6センチメートルで三段組でつくられています。鐘の上段から中段へのふくらみは、柔らかな広がりをもち流麗さを感じさせ、鋳継ぎによる縦帯の乱れもなく優秀な製作といえます。乳(ち)は、四段四列で上帯は素文、下段には唐草文があり、池(いけ)の間(ま)の四区にわたり銘文が刻まれています。二か所の撞座(つきざ)は、摩滅が著しいが肉高につくられています。
池の間の銘文には、上総国菅生庄本郷飯富宮社頭とあり、現在の袖ヶ浦市にある飽富(あきとみ)神社に所在したものであることが知られています。
また、享徳11年(1462)[享徳11年は寛正3年にあたる]の銘と作者の河内権守光吉及び貞吉の名が刻まれています。
製作の由来、年代、作者が判明している点で貴重なものとされていますが、この鐘がいつ、誰によって飽富神社から圓福寺に運ばれた由来は不明です。