私が主に広島で思ったことや体験したことは3つあります。1つ目は、広島という都市についてです。1日目に行った厳島神社や、その道中などを通して、広島が古くから中国地方の主要都市として発展してきたことを伺い知れました。そして川がとても多く、橋や市内の要所を結んでいる広島電鉄が市内の交通において重要な役割を果たしているということがわかりました。2つ目は、原子爆弾が投下される前の広島と投下された後、およびその被害についてです。広島平和記念資料館で原子爆弾が投下される前の広島パネルを見て、私はこんなにも発展していたのかと思いました。私たちが宿泊した紙屋町の写真もあり、ギリシャ風の銀行のような建物などが建っていました。しかし、広島という都市に訪れた未来は凄惨なものでした。辺りは更地になり、コンクリート造りの建物がポツリポツリと建っているだけでした。続いてのブースには2枚の写真がありました。この写真を撮った新聞社の記者は、この事実を伝えなければというジャーナリストとしての責務と、とはいえこんな写真を撮ってしまっていいのかという葛藤があり、20分もの間そこに立ち尽くしてしまったそうです。そしてその2枚の写真を撮った所で、涙があふれてしまい、写真を撮ることができなくなってしまったそうです。他にも熱線によって溶けたガラスや鉄屑、硬貨やそれに混じった骨、そして人の影が焼きついた壁が展示されており、思わず目を背けてしまいました。さらに足を進めてみると、そこには被爆者の方が描いた当時の広島の様子の絵があり、その中でも目を引いたのは、被爆した中学生を書いた作品でした。爆風、黒い雨の被害を解説している展示を抜けると、そこには佐々木禎子さんが生前に折った折り鶴がありました。想像よりもとても小さく、針で折って作ったそうです。3つめは過去および現在の国際情勢についてです。すでにソ連の仲介を通して、幸福を模索していた日本に核爆弾を投下し、さらに広島を完全に実験都市扱いにしたアメリカの行為は間違いなく非難されるべきです。しかし、私たちは現在、アメリカの核の傘の中にいて、核抑止力が作り出した刹那的な平和を無自覚に享受している可能性があります。世界は複雑です。核爆弾を用いた無差別殺人は絶対に許すことができませんが、核兵器そのものが今非難されるべきものなのかどうか、今の私には判断できません。もっと、さまざまなことを学び、多面的な思考を身に着けて、この問題について考え続けていきたいと思います。私はこの研修を通して核爆弾というものがいかに悲惨なものであるか知りました。そして平和というものは本当に難しいと思いました。これからも、平和や戦争について考えていきたいと思います。
私が広島派遣研修に応募した理由は、原子爆弾によって多くの人の命が失われた惨状と戦後79年がたち、人々がどのように平和を願ってきたのかを学びたいと思ったからです。1日目は、早朝に出発し、厳島神社に向かいました。厳島神社に到着した時は、あいにくの曇りで、雨もパラパラと降っていました。しかし、干潮の時間帯だったので、大鳥居を間近で見学することが出来ました。大鳥居は、私たちがいつも見ている鳥居よりとても大きく、さすが世界遺産だと思いました。2日目は、広島平和記念資料館と平和記念公園に行きました。平和記念資料館では、石田館長さんから直接に説明してもらいながら見学しました。館長さんは、冒頭で、館内では建物疎開に動員されていた多くの中学生の遺品や当時の暮らしが伺えるものなどを展示しているので、是非、今の自分と重ね合わせて見学してほしいとのことでした。説明の中で、特に印象に残っていることは、原子爆弾の威力についてです。原子爆弾のエネルギーは、爆風が50%、熱線が35%、放射線15%だそうです。原子爆弾が落とされた後に発生した火の玉の表面温度は、0.2秒後にはセ氏7000℃に達し、あっという間に沢山の人々の命を奪いました。次に、遺品などが展示されたコーナーでは、私と同じ中学生の上着、ズボンや帽子などが沢山ありました。どれも血と思われる染みがあったり、千切れて原型のわからないものさえありました。着ていた子は、どんな恐怖や、苦しみを味わったのだろう。胸が苦しくなりました。また、展示物の中に、中身が真っ黒の炭になったアルミのお弁当箱がありました。弁当箱の持ち主の男の子は、ジャガイモが好きだったそうです。その年に初めて収穫したジャガイモをお母さんが炒めて詰めてくれたものと説明を受けました。きっと楽しみにしていたに違いありません。原子爆弾は、その細やかな幸せさえ奪ったのです。私は、悲しみと悔しさと怒りにも似た複雑な気持ちになりました。これはたった1人の物語ですが、亡くなったすべての方に物語があり、1人ひとりに夢見る未来があったと思います。私は、日々友達と学校で楽しく学び、過ごし、部活動も頑張っています。ゲームも好きで、つい夢中になりすぎて両親に注意されたりもします。平和記念資料館に遺品が展示されていた子どもたちにも、自分の好きなことを楽しむ時間があったでしょうか。戦争の無い時代を生きる私は、平和の中で、どれほど恵まれた環境にいるのかということを実感せずにはいられませんでした。平和記念公園では、ピースボランティアさんと一緒に原爆ドームに向かいました。途中で原爆の子の像の前を通りました。原爆の子の像は、原子爆弾で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために織町中学校の同級らによる募金運動によって作られた像です。碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれていて、大きく心を揺さぶられました。また、ピースボランティアさんから、年々被爆体験証言者が亡くなってしまっていると聞きました。私も微力ですが、今回学んだことをすこしでも多くの人たちに伝えなければいけないなと考えました。午後は、原爆の絵画展の見学に行きました。展示されている絵は、高校生が被爆体験者の証言を元に描いたものです。絵で見ることで、当時の状況を理解しやすい反面、これが現実にあったかと考えると、唯々恐怖しかありませんでした。そして、会場から出るときにおじいさんたちに話しかけられました、「君たち見学しにきたのかい」といわれ「はい」と答えたら、なんとカキの苗木をくださいました。「この苗木は、どういう物なんですか」と尋ねると、「原子爆弾が投下された広島には、50年間、草木も生えないといわれたそうだ。けれども、爆心地からわずか530mのお寺の境内に立っていた12本の被爆樹木の中で、生き残ったカキの木が1本あって、この木の種を蒔いたものだよ。」とおじいさんが答えました。私は、原子爆弾の爆風、熱線と放射能に耐え抜き今に生きる樹木の生命力に感動すると同時に、この木のように“伝える使命”を担っていこうと決意しました。この広島研修に参加できた事をとてもうれしく思いました、参加させていただきありがとうございました。
私は、派遣研修で初めて広島に行きました。実際に現地を訪れることで、テレビや学校の教科書でしか見たことのない原爆ドームや原爆死没者慰霊碑や原爆の子の像などを近くで見ることが出来ました。特に原爆ドームは、屋根や壁がくずれ落ち、建物内に原爆投下当時のがれきが散乱し、補強のための鉄筋も見えて痛々しく、原子爆弾の威力が強大であったことがわかりました。実際に被爆してしまった人は、どれだけ恐ろしかったことか。私は全然想像が出きませんでした。広島平和記念資料館では、館長さんから原子爆弾や戦争中の広島市民の生活などの解説を聞きながら見学しました。はじめに目に入ってきたのは、原子爆弾が投下される前の広島市の商店街の写真と戦時下の小学校の前で生徒と先生が笑顔で写っている写真です。街は活気に溢れ、大人も子どもも笑顔で仲良く暮らしている様子でした。続いて、原子爆弾が投下されて焼け野原になってしまった広島市の写真を見ました。写真には、木造の家は1軒もなく、唯一残っていたのは鉄筋コンクリートで作られた建物の一部だけでした。次のブースに移動し、見えてきたのは2枚の写真でした。1枚目の写真は、原子爆弾が投下されて2日後の写真でした。「水をください」や「助けて」といった被爆者が言っていた言葉が写真の横に書いてあり、見ているだけでとても心が痛みました。2枚目の写真は、大火傷をおった人々が道に座り込んでいる写真でした。中には、かろうじて歩いている人もいましたが、火傷跡がとてもひどかったことが今も記憶に残っています。この2枚の写真を撮った報道の方は、あまりの惨状に20分間シャッターを切ることができなかったことや、人としての倫理観から2枚撮影し、これ以上は撮ることができないと撮影を断念した話を聞きました。報道の方でさえ撮影を躊躇った光景と被爆者の言葉に、私は、資料館の中で言葉を失い呆然とし、恐怖で足がすくんでしまいました。その奥に入ると、8月6日の惨状というブースでした。そこには爆風などの影響で歪んでしまった鉄や陸軍の建物の模型、建物疎開中に被爆してしまった子ども達が来ていた服がありました。その他にも、被爆した人たちが最後に残した言葉と共に顔写真と遺品がありました。ボロボロの3輪車や制服、本当は8月6日に食べるはずだったお弁当箱と水筒が置いてありました。見ていると胸が締め付けられて苦しくなりました。最後に、原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さんの短い生涯についての展示を見ました。禎子さんは原爆から出た放射線で白血病や皮膚がんにかかってしまって入院していました。禎子さんは、鶴を千羽折ると願いが叶うという言い伝えを信じ、「病気を治したい」という願いを込めて鶴を折り続けましたが、中学校へ通うことを夢見た女の子は、12歳で亡くなりました。投下直後だけでなく何年、何十年経っても多くの命を奪っていく原子爆弾は、本当に許せない恐ろしい兵器だと思いました。ほかにも今回の派遣研修では、実際に見て肌で感じることで、戦争で起きた出来事の悲惨さや平和の尊さ、命の大切さについて改めて考えさせられる3日間でした。戦争について「私たちは戦争を経験していないし、よく知らないから関係ない」で済ませるのではなく、知らないからこそ調べて、次世代にも伝えていくことが大切だと思います。私が経験したことや感じたこと、そして二度と戦争をしない決意を周りの友達や家族などに伝えて広めていきたいです。夏休みに貴重な経験ができ、思い出に残る研修となりました。
私は、原子爆弾について、テレビで見たり、学校で学んだりしたことがあります。しかし、私自身、戦争を経験していないので、戦争について理解しきれていないと思います。そこで、実際に被害のあった地を訪れ、歴史に直接触れることで、平和に対する理解をより深めることを目標に広島派遣に参加しました。広島平和記念資料館では、原子爆弾や原子爆弾投下後の広島について、教科書だけでは知ることのできない資料がたくさんありました。広島に行くまで、自分なりに戦争について調べたつもりでしたが、平和記念資料館で初めて知ったことが多く、実相への知識を深めることで私自身の平和に対する願いは、より強いものとなりました。特に印象に残ったのは、「人影の石」と呼ばれる石段です。銀行の開店前に入口で座っていた人の影の跡と言われています。この「人影の石」の写真を資料として見たことはあったのですが、実物を近くで見ると、実際に人が座っていたことが感じ取れ、人間の姿を一瞬でなくしてしまう原子爆弾の恐ろしさを強く感じました。この石段は、住友銀行広島支店の入口階段を切り出して移設したものです。爆心地から約260m離れた銀行の階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂し、逃げることもできないままその場で死亡したものと思われるとの説明に、背筋が凍り付くような感じがしました。後日談として、この人影が自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられたそうです。私は、亡くなられた方の無念、残された家族の苦しみや悲しみ、被爆した人の不安を考えて、泣き出したい気持ちになりました。平和記念公園では、ピースボランティアさんの解説を聞きました。私たちが立っている地面の下には、今も原爆死没者の骨が埋まっていて、探しきれない骨や形がボロボロになってしまっている骨などが沢山あると聞きました。私は、平和記念資料館で館長さんが解説くださった溶融塊の話を思い出しました。溶融塊とは、高熱で溶けだした瓦、ガラス、金属などが冷めて再び塊となったものです。焼け野原となった広島のまちから、人の骨が混じった溶融塊も採集されているとのことでした。一瞬にして奪われた多くの命とその後の惨状に、原子爆弾は二度と使ってはならない兵器だと思いました。最後に原爆の絵画展を見学しました。ブースには、原子爆弾を体験された方の証言をもとに高校生が描いた絵が展示してありました。体中にガラスが突き刺さっている人の絵が特に衝撃的で、実際にあったことなんだと、とてもつらい気持ちになりました。私は、今回の派遣研修をとおして、二度と戦争が起こらないように、この3日間で学んだこと、感じたことを学校や地域の方に伝えていきたいと思いました。また、世界には今も戦争や紛争に苦しんでいる地域があるので、そのような世界情勢にも耳を傾けていきたいです。最後に、令和6年度の中学生派遣団として、平和記念公園の平和の灯の火が消される日、即ち世界中の核兵器がなくなる日の1日も早い到来と恒久平和を願って報告を終わります。