1945年8月9日午前11時2分、長崎の街は、一瞬で変わり果てました。その当時の甚大な被害がわかるものを、今回、私はこの目で沢山見てきました。
私が、3日間で特に印象に残っていることは、大きく3つあります。
1つ目は、長崎原爆資料館での見学です。入口には11時2分で止まったままの柱時計、中に進むと当時の人が着ていた服や、原爆が落とされた後の焼けた街の写真などが、沢山展示されていました。まるでそれらが、全方向からこちらに向けて、悲惨さを訴えているようなのです。私は何度も立ちすくんでしまいました。今、私が生きてこの場に立っているという事実が、貴重ですごい事だと、何とも言えない不思議な思いがこみ上げてきたのです。
2つ目は、当時医師として被爆者の治療を行っていた永井隆さんの言葉です。「平和について沢山議論されているが、平和に必要なのは、ただ純粋な愛である。」これは、私の心に残った言葉です。永井さんは、長崎市名誉市民第1号で、病で寝たきりになっても、平和を訴える多くの著作を残し、人々に生きる希望を与えた方です。
3つ目は、派遣に行った6人で過ごした楽しい時間です。初めて話したにも関わらず、共に過ごすうちに、笑顔が絶えない時間を一緒に作ることができたのです。自分以外の誰かが生きていることで、自分も幸せや喜びを感じることができる。戦場で命を奪い合った相手が、戦争が無かったら、自分にとって大切な人になっていたかもしれない。人と人が傷つけ合う必要はない。私は深くそう思いました。
今回派遣に行けたこと、それを支えてくれた全ての人に感謝申し上げます。そして、全ての人が、笑顔で自由に暮らせる世の中を心から願い、ご報告とさせていただきます。
8月18日から8月20日まで僕は銚子市平和大使の一員として、長崎市へ平和学習に行ってきました。長崎は、広島と同じく原爆が投下された町であり、戦争の悲惨さや平和の大切さを直接学べる場所です。自分は何を感じ、どんなことを学べるのだろうかと考え出発しました。
原爆資料館では、原爆が投下された直後の町の様子や人的被害の切なさを感じました。展示写真や爆風でねじ曲がった鉄、熱で溶けてしまったガラス瓶、そして焼け焦げた服が並んでいて、どの展示も痛々しく、僕は言葉を失いました。特に胸を打ったのは小さな子どもの遺品でした。小さな学生服や靴を見た瞬間、「この持ち主も、僕と同じように学校に通い、友達と笑い合い夢を語っていたはずなのに」と思うと、涙があふれそうになりました。僕は、自分と同世代の子どもたちが原爆投下による4000度の熱により一瞬で命を奪われたことを思い、胸が締めつけられました。「もし自分があの時代に生きていたら」と考えると背筋が震えるようでした。
浦上天主堂では、原爆で壊れた被爆マリア像があり、戦争の恐ろしさを無言で訴えているように感じました。けれども同時に、人々が絶望せずに力を合わせ、再び立派に建て直したと知りました。どれほど辛い状況でも、人は希望を捨てずに生きていけるのだと胸が熱くなりました。
この長崎での研修は、全て平和の尊さと戦争の悲惨さを強く感じる学びとなりました。平和公園の空に向かって立つ大きな平和祈念像から強い祈りを感じたように、「平和は当たり前ではなく守り続けなければならないもの」と実感しました。戦後80年を過ぎ、戦争の恐ろしさを知らない人が増えていくこれからの時代、誰かが伝えていかなければ同じ過ちが繰り返されるかもしれません。
平和大使の1人として、自分の言葉で戦争の悲惨さを語り、伝えられる人になりたいです。
私は、平和大使の任命を受け、平和な未来のために過去を知る必要があると考えるようになりました。
1945年8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下されました。当時の長崎の人口は約24万人でした。死者7万3884人、負傷者7万4909人でした。死者と負傷者の数はそれぞれ私の住む銚子市の現在の人口より多い数です。たった1発の原子爆弾が、長崎の街を一変させたのです。原爆資料館を見学し、展示されている千切れた服の欠片、黒焦げの弁当箱、思わず目を背けたくなるような写真もあり、この派遣研修で戦争の悲惨さについて、自分自身の目で見たり耳で聞いたりして、学校での学習だけではつかめないことを学ぶことができました。
戦争で使われた原子爆弾の恐ろしさ、犠牲になった方々の無念、戦争が起こる理由や戦時下の人々の不安や恐怖など、研修の間、いろいろなことが私の頭の中を巡りました。
しかし、現在、多くの国が核兵器を所持しています。こんな悲惨な被害をもたらす恐ろしいものをなぜ多くの国が所持したがるのでしょう。これは、いつ核兵器が使われ、戦争が起こるか分からないということです。私は不安と恐怖を覚えました。地球上では今でも戦争が続いています。「平和」は誰もが望んでいることです。私は自分に何ができ、何をすべきなのか考えました。
「平和」というものは、不安定な世界情勢の中では、簡単なものではないのかもしれません。戦争や争いごとはすべてを失い傷つけるだけです。傷つけ合うのではなく、助け合える世界にしていきたいです。私の経験を周りの人たちに伝え、当たり前ではない平和な日常を続けていくためにどう生活していくべきなのか、みんなで一緒に考えていきたいです。この研修に参加できて良かったです。
私は、この夏休みに長崎の街へ行って来ました。80年前の8月9日に投下された原子爆弾によって、当時の長崎の人口の約24万人中、約7万4000人が死亡し、約7万5000人が負傷したと学習しました。
私には、長崎に住んでいる祖父母がいます。母も長崎出身で、小学校から高等学校において、被爆者が体験を話す「被爆体験講話」などの平和学習を受けています。
原爆資料館では、平和案内人の方が、館内を解説しながら案内してくれましたが、話を聞く中で、祖父母や母から聞いた話と重なる部分があり、とても辛くなりました。被爆した方は、命を奪われたり、傷ついたりしただけでなく、傷がなくても、がんなどの病の発生に怯える日々を過ごさなくてはならないそうです。その後も、被爆者の中には、出身地を伝えると、周囲から「原爆症がうつる」などと心ない言葉をかけられたり、「被爆者だから手や足がない子どもが産まれる」などと根拠のないことを言われ、差別された方も多くいたそうです。
原子爆弾によって奪われたり壊されたりするのは、物や建物だけでなく、人の命、残された人の心身の健康や人としての尊厳もあるということを私は被爆4世として広く伝え、差別や偏見の解消に繋がればと考えます。
最後に、今回の派遣研修で初めて話す人ばかりで、少し不安でしたが、行動を共にしたり、同じ気持ちで学習に向き合ったり、たわいのない会話をしていくうちに段々と仲良くなることができました。これから先、私達がすべき事は、こんな風に身近な人と笑い合い、勇気を出して仲良くなることなのではないかと思います。少しの優しさと勇気を出すことができれば、きっと少しずつ平和に近づけるはずだと思いました。
