西廣家は江戸時代末期に紀州から来て銚子に移り住み、その後漁業を始めました。今も銚子を代表する船主です。主屋は、北に納屋と旧缶詰工場が隣接しており、建物は明治10年(1877)に建てられた木造平屋桟瓦葺、寄棟造の本館と、昭和12年(1937)に増築された総檜、洋館で構成されています。
鰹節製造所であった平屋の建物を、昭和10年(1935)に2階建てに改造しました。この木造2階建ての建物と洋小屋組木造トラス(一部鉄骨)の工場部分を連結する形になり、痛みが早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場の稼働を開始しました。
1865年から1868年(江戸時代末期慶応年間)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物で、現在は漁網の他、船舶を補修するための器具や建具、高膳などが置かれています。南倉は北倉に比べると、やや小さくなっています。
建築年代は不明です。聞き伝えによると大正末期から昭和初期に設置されたようです。
西廣家は銚子市を代表する船主です。江戸時代末期に紀州から移り住み初代が質屋を営みながら質種として土地を取得し大地主となりました。2代目治郎吉(じろきち)氏が漁業を始めました。
船名は信仰していた長野県の御嶽山からとった「御嶽丸(おんたけまる)」です。屋号は漁業を始めた2代目の名前をとり、「治郎吉」になります。現在でも主屋の玄関上部にその表記が見られます。明治10年(1877)に建てられた木造平屋桟瓦葺、寄棟造の本館と昭和12年(1937)に総檜、洋館が建てられました。豪壮な本館と、付書院に犬吠埼の風景をあしらうなど細部意匠をこらした増築部分が対照的です。
昭和初期に、痛みの早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場が稼働を開始しました。木造2階建て部分と洋小屋組木造トラス(一部鉄骨) の工場部分が連結する形になっています。 木造2階建ての部分の一階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペースを確保するために昭和10年(1935)に建てられました。 元の平家部分の南側には、獲れた魚の鮮度を保つため氷漬けにするためのコンクリート造りの水槽が置いてありました。
1865年から1868年(江戸時代末期慶応年間)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物です。その後は貯蔵庫として使われていました。現在では漁網の他、船舶を補修するための器具や、建具や高膳などが置かれる物置となっています。北倉・南倉はそれぞれ中心部が2階建てになっており、中心をコの字型に囲む造りになっています。 南倉は北倉よりやや規模が小さくなっています。
聞き伝えによると大正末期から昭和初期に建立され、主屋南側の庭を画す煉瓦塀です。大谷石と銚子石(砂岩)製の石積基礎上、上部に煉瓦をイギリス積とし、上部は小屋根状に造られています。港町銚子の歴史的景観を形成する煉瓦塀です。