中尊の木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)は、像高52.3センチメートルの割矧(わりはぎ)造り(材種不明)、両脇侍(りょうわきじ)の観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)と勢至菩薩立像(せいしぼさつりゅうぞう)は、像高107センチメートルのヒノキ材割矧ぎ造りです。
本三尊像の制作年代は、中尊が近世初期、両脇侍像が鎌倉時代最末期とされ、製作年代の一致をみませんが、当初、中尊は海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)の阿弥陀堂に安置されていたもので、明治期の神仏分離の際に東円寺(とうえんじ)に移安され、その後、本尊としています。
中尊の木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)は像高52.3センチメートル、割矧(わりはぎ)造りで目に玉眼(ぎょくがん)をはめ込み、表面は錆漆地(さびうるしじ)に弁柄漆塗(べんがらうるしぬり)、漆箔(しっぱく)が施され、像底は全面に布貼りが施され、黒漆塗(くろうるしぬり)です。螺髪(らほつ)を施毛形(せんもうがた)に彫り出し、肉髻珠(にっけいしゅ)、白毫(びゃくごう)に水晶を入れ、衲衣(のうえ)は左肩を覆い、右肩に少し懸かり、阿弥陀定印(あみだじょういん)を結び、右足を上に結跏趺坐(けっかふざ)しています。
本像には、延宝6年(1678)、仏師江戸賀兵衛他3名による造立と記載されている木札が遺されています。作風は堅実な造形で、整った像容が認められ、江戸仏師の優れた水準を示す近世初期の製作を物語っています。
左脇侍の木造観音菩薩立像(もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう)は、像高106.5センチメートル、ヒノキ材の割矧ぎ造りで目に玉眼をはめ込み、肉身部は金泥塗(きんでいぬり)、衣部には漆箔が施されています。条帛(じょうはく)を懸(か)け、天衣は背部から両肩に懸かり、左右とも肘外側に垂下して反転し、前ぱく(注1)内側から体側に垂下しています。(垂下部分は亡失。現状の右腕部分は後補。)裙(くん)や腰布をつけ、腰帯を後ろでたるませて巻き、両手は腹前で運台を捧げています。上体は直立、膝をやや曲げて開き台座上に立ち、右脇侍の木造勢至菩薩立像(もくぞうせいしぼさつりゅうぞう)は、胸部で合掌する以外は、観音菩薩像に准ずる造形です。
両脇侍立像は、その作風や製作技法からみて、鎌倉時代最末期の像立と考えられています。また、像内銘から天正4年(1576)に平木住僧円樹坊定弥により修理されていることがわかっています。本三尊像は、制作年代に一致がみられないこと、中尊の納入木札に、「奉造立三尊阿弥陀如来一宇」という記載があり、現在の両脇侍とあわせて三尊となるように阿弥陀如来坐像を造ったと解釈しても、三尊一具とするには本像の大きさが小さく、釣り合いがとれないことなど、三像の関係性が明確に解明されていませんが、海上八幡宮を取巻く柴崎地域の歴史に係わる貴重な資料といえるものです。
(注1)前ぱくの「ぱく」は「月」へんに「専」