江戸を支え、江戸と共に発展した北総四都市。江戸の影響を受けながらも独自に発展したこれらの都市には、今も江戸の情緒が残っています。
平成28年(2016)、銚子市は佐倉市、成田市、香取市(佐原)とともに「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」 佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的な町並み群 として日本遺産に認定されました。
「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」
佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的町並み
千葉県(佐倉市・成田市・香取市・銚子市)
北総地域は、百万都市江戸に隣接し、関東平野と豊かな漁業の太平洋を背景に、利根川東遷により発達した水運と江戸に続く街道を利用して江戸に東国の物産を供給し、江戸のくらしや経済を支えました。こうした中、江戸文化を取り入れることにより、城下町の佐倉、成田山の門前町成田、利根水運の河岸、香取神宮の参道の基点の佐原、漁港・港町、そして磯巡りの観光客でにぎわった銚子という4つの特色ある都市が発展しました。
これら四都市では、江戸庶民も訪れた4種の町並みや風景が残り、今も東京近郊にありながら江戸情緒を体験することができます。
成田空港からも近いこれらの都市は、世界から一番近い「江戸」といえます。
「お江戸みたけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸優り」
江戸時代の佐原の繁栄ぶりを唄った戯れ歌です。江戸に近接する北総地域は、江戸に続く街道と利根川水運を活かし、江戸をさまざまな形で支えながら発展しました。そして、江戸との盛んな人と物の交流は、江戸の文化をこの地域にもたらしその繁栄を支え、特色ある都市群が形成されたのです。
千葉県の北部に位置する北総地域は、古代から河川・湖を超えて奥州に望む要所として位置づけられ、中世にはさまざまな勢力が抗争する地でした。江戸幕府もその地勢的な重要性から、佐倉に有力譜代大名を配し、江戸と佐倉間に佐倉街道も整備しました。その後、この街道を経て成田山新勝寺へと向かう「成田参詣」の隆盛に伴い、成田街道とも呼ばれるようになりました。さらに街道は東に延び、佐原、香取、鹿島といった利根川水郷地帯に集中する観光・信仰の一大センターへと続きます。また、利根川に沿って銚子に向かう銚子街道は、佐原で成田街道と交差し、同所から銚子まではおよそ40キロメートルの道程です。北総の都市の発展は、街道により支えられたのです。
北総の発展を支えたもう一つの要素が利根川です。家康の江戸入府後、江戸の町を利根川の水害から守るため行われた利根川の東遷事業は、北総地域を利根川の下流とし大きな水害をもたらしましたが、一方で、利根川東遷・江戸川の開削事業は、利根川の舟運を発達させ、流域には佐原に代表される多くの河岸も発達しました。さらに、海難事故の多い房総沖を避け、銚子を起点として利根川を遡って江戸に向かう水運ルートは、東国各地の物資を江戸に運ぶ大動脈となりました。佐倉藩も治水に取り組み、印旛沼に河岸を設け水運を活用して藩の特産品などを江戸に運びました。
利根川水運は、商業的な往来はもちろんのこと、人の往来を活性化し、成田参詣も陸行ばかりでなく途中まで舟を利用した者も多く、また、香取神宮などの「三社詣」や「銚子の磯巡り」など舟旅を楽しむ江戸庶民の小旅行の流行をもたらしました。
このように、江戸へと続く街道と利根川の大動脈は、北総地域の発展を支える大きな柱となったのです。
当時、百万人の人口を有した世界有数の大都市江戸は、周辺都市・地域の支えにより成り立っていました。特に、北総地域は、利根水運の発達と整備された街道を通じ、さまざまな面から江戸の生活、幕藩経済を支えました。
要衝である佐倉は、江戸に家康が入ると有力親藩・譜代大名が配置(老中8名/藩主23名〉されるなど、政治的・軍事的に江戸を支える重要な拠点都市であり続けました。加えて、幕末に開国へと導いた開明老中堀田正睦が藩校「成徳書院」を拠点に洋学の振興に努め、江戸に人材を輩出する学都としても発展します。特に、1843年に「佐倉順天堂」が設立され、医学分野においては「西の長崎、東の佐倉」として、長崎と並び称され、ここで学んだ多くの若者が明治の医学界で活躍しました。
成田山新勝寺は、歌舞伎役者市川團十郎(屋号:成田屋)の深い帰依と、江戸深川での秘仏公開のキャンペーンの成果もあり、江戸庶民の間で「成田参詣」がブームとなり、成田山とその門前町の成田は大いに発展しました。また、成田に向かう人々は、その途上、帰途に佐倉城下や宗吾霊堂など各所旧跡にも立ち寄よりました。
佐原は、江戸時代初めから酒造もはじまり、利根川水運と結びついた廻米・酒造・『商業活動』により、下利根随一の河港商業都市に発展しました。また、香取神宮の参道の起点として参拝客を迎える町としても賑わいます。なお、町は、旦那衆と呼ばれた商人(名主)たちにより自治的な運営が行われ、「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬もその1人で、経済的発展は地域の文化・学問にも影響を及ぼしました。
利根川東遷によりその河口となった銚子は、天然の漁業を臨む好地にあり、江戸の人々に魚を供給する漁港として発展しました。魚の江戸への運搬は、利根川と「鮮魚(なま)街道」と呼ばれる街道により鮮度を失わないように迅速に行われました。銚子は、今なお我が国随一の漁港として、魚好き国民の食を支え続けています。また、銚子独特の地質景観の奇岩の「磯巡り」は、文人墨客も好んで題材とし、銚子は観光でも賑わいました。利根川水運の発達は、銚子を漁港に留まらず、東国の米などの物資を江戸に送る流通や、江戸前料理を支えた濃口醤油の醸造でも繁盛させ、当時の人口は関東地方では江戸を除き水戸に次いで多かったのです。
このように、北総四都市は、水運と街道を通して、政治・学問(佐倉)、信仰・観光(成田)、商業・水運(佐原)、漁港・港湾(銚子)により、江戸を支える大きな役割を果たしました。
江戸との密接な繋がりの中でそれぞれ繁栄した四都市は、今の暮らしの中でも江戸の往時を物語るように街並みが残されています。また、城下町、門前町、商家の家、港町という江戸の代表的な町並みとして揃っているのも北総地域の大きな特色です。
佐倉では、佐倉城跡に本丸を中心に堀・土塁が残り、町中の道は狭く直角に折れ曲がる城下町の名残を留め、武家屋敷群が良好に保存されるとともに、旧佐倉順天堂の建物や藩校「成徳書院」や堀田家の資料(鹿山文庫)などにより武家の生活や洋学を学んだ者の足跡も偲ぶことができます。
成田新勝寺には初詣や節分などで東京から多くの参拝客が訪れ、往時から続く成田参詣は今なお隆盛が続いています。伽藍には多くの歴史的な建物が残されており、昔からの町並が残る門前町は参拝客で賑わい、利根川・印旛沼の幸を活かした鰻料理は、門前町の名物となっています。
利根川に続く小野川の両岸に繁栄した佐原の町並みは、地域の人々の努力により保全・修復され、川沿いには川面に下りる荷揚げ用の石段「だし」なども残り、江戸情緒の残る住時の商人の暮らしを体験することができます。
銚子の漁港は、江戸時代初期に紀州から移住した崎山治郎右衛門が築港した外川港から始まりましたが、漁港に面した斜面には基盤の目のような当時の区画が今も残されています。また、利根川河口付近には、江戸時代から銚子の観音様として参拝者が多かった円福寺や漁師の守り神とされる川口神社、廻船問屋の建物など、港町の隆盛を物語る資産が残っています。
さらに、四都市には、その町並みの中で息づく伝統的な祭りが継承され、多くの観光客で賑わっています。中でも、夏と秋の「佐原の大祭」に彫刻に飾られた総欅作り(そうけやきづくり)の絢爛豪華な山車が「佐原囃子」の調べに乗って、小野川両岸の伝統的な建造物の町並みの中を曳きまわされる「佐原の山車行事」には、今でも全国から大勢の人が訪れます。
これら北総の四都市は、日本の空の玄関成田空港からごく近くの場所にあり、例えば、成田の門前町へは車・電車ではおよそ15分から20分の距離です。
江戸及びその近郊の都市の多くが、開発により昔ながらの風景・街道が破壊されていく中で、北総地域に今も良好に残される佐倉の城下町、成田の門前町、佐原の商家の町並み、銚子の港町は、世界から一番近い場所に江戸情緒が残り、しかも同一地域にありながらタイプの違う4種の町並みで、江戸を感じることができる稀有な例となっています。
より詳しく知りたい方は「日本遺産 北総四都市江戸紀行」ホームページをご覧ください。
日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・歴史を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
ストーリーを語る上で欠かせない有形・無形のさまざまな文化財群を総合的に活用する取組を支援します。
地域ぐるみでその土地の文化財を保存・活用し、国内外へと発信していくことで地域の活性化を目指します。
より詳しく知りたい方は「日本遺産ポータルサイト」をご覧ください。