東京から直線距離で100キロメートルの関東最東端のまち「銚子」。
東と南を太平洋に、北は利根川というように三方を水に囲まれ、海に突き出た半島地形をしています。
日本列島を扇にたとえると要の部分にあたる場所が銚子です。
市内には2億年前の地層(犬岩など)をはじめ恐竜が生きていたころの約1億3000万年前の地層(犬吠埼周辺)や日本列島が大陸から動いてきたころの約1700万年前の地層(夫婦ケ鼻)、約300万年前の地層(屏風ケ浦)など地球の歴史を体感できる場所が点在し銚子市全体が日本ジオパークに認定されています。
ちなみに「銚子」という地名は江戸時代後期から使われはじめ、利根川が太平洋に注ぐ河口付近が狭くなっていて酒器の銚子(酒補充用の提子)に似ていることから呼ばれるようになったという説が有力です。
「お銚子一本!」といって提供される食器は「徳利」です。
黒潮が日本列島に沿って北上していますが銚子半島を最後に陸地から遠ざかって流れていきます。
銚子沖では親潮と大きな渦を巻いていて、そこに利根川からながれる山のミネラル分も加わってプランクトンが大量に発生するため屈指の好漁場になっているといわれています。
また、黒潮の影響で一年中温暖で湿潤な海洋性気候のため真冬でも雪が降ることがほとんどなく露地野菜が栽培できるほか醤油の醸造に適した環境といわれています。
銚子では約28,000年前の旧石器時代から人が暮らし始めました。三崎3丁目遺跡で発見された台所跡は銚子市地域交流センター内の考古資料展示室に展示されています。
銚子では縄文遺跡が多数発見されていますが、中でも粟島台遺跡と余山貝塚は学術的にも重要な遺跡とされています。
縄文時代の遺跡からは千葉県にはない黒曜石やヒスイの加工品が見つかっています。
中世は荘園が置かれ、海上氏によって中島城を中心とした政治が行われ香取の海(現在の霞ケ浦や利根川)による交易が盛んでした。
江戸時代には利根川の水運により物流が発達しました。一方では黒潮にのって紀州(現在の和歌山県)から多くの人が銚子へ移住し漁業を発展させました。銚子には高崎藩(現在の群馬県)の陣屋が置かれていました。
明治時代には鉄道が開通し、大正時代には多くの文人墨客が避暑のために銚子を訪れました。
昭和時代になると自動車による物流が発達し人とモノの交流はますます加速しました。
銚子では「地の者」と「旅の者」の交流により多様な文化と産業が紡がれてきています。
江戸時代の後期、銚子は江戸、水戸に次ぐ関東で三番目の大都市でした。これは利根川の水運が発達したことが大きく影響しています。
江戸時代初頭、利根川は東京湾に注いでいてしばしば洪水を起こしていました。徳川家康は水害から江戸のまちを守るため利根川を銚子へ向けて流れを変えるよう命令を下します。約60年の歳月をかけて利根川の東遷工事は完成し、銚子と江戸は水路で結ばれることになりました。これにより東北や関西からの物資が海路で銚子を経由し、高瀬舟に積み替えて江戸へ運ばれるようになり物流拠点として大いに繁栄しました。
さらに銚子で生産された醤油や干鰯(ほしか)なども供給され「銚子は江戸の台所」と称されるほどでした。
北総四都市江戸紀行「江戸を感じる北総の町並み」として成田市、佐倉市、香取市とともに日本遺産に認定されています。
銚子は意外と有名です。
毎日天気予報でテレビに登場しますし、「銚子市犬吠埼の東150キロの太平洋上で…」という風に台風の位置や船舶の遭難など海上の位置を示すときにも目印として使われます。
鉄道が発達した明治後期から大正時代は多くの文化人が避暑のために訪れて多くの足跡を残しています。
また、昭和40年代からは高校野球でも有名になりました。銚子商業、市立銚子、銚子西校の3校が甲子園に出場しています。
特に銚子商業は昭和49年夏の大会で全国優勝しています。
今では「野球のまち」の面影はほとんどありませんが「魚のまち」「農業のまち」「醤油のまち」「観光のまち」は健在です。
銚子には日本一がたくさんあります。
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