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市内各地で見られる石仏や道祖神、伊勢講などの記念碑、板碑などは掲載していません。
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早稲田大学出身の青年詩人である三富朽葉と今井白揚は大正6年(1917年)8月2日、遊びに来ていた銚子・君ケ浜で激しい波にのまれ溺死しました。
将来を嘱望された若い2人の詩人の不慮の死に朽葉の父・三富雪州は、一年後の命日に父母の悲嘆と永遠の追悼を刻んで涙痕(るいこん)の碑を建立しました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)
元日の前後10日間だけは地球の地軸の傾きにより犬吠埼が最も早く日の出を迎えます。(山頂と離島を除く)
毎年、元日には約6万人が犬吠埼一帯に押し寄せます。
君ケ浜しおさい公園には日本一早い初日の出モニュメントがあります。
初日の出が灯台の真上に差しかかった時、陽光がモニュメントの隙間から一筋の光となって石板のポイントを投影します。
光と影のアーテイスト宗政浩二の作品で平成15年に制作されました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)
ユーラシア大陸の東端にある犬吠埼と西端にあたるポルトガル共和国シントラ市のロカ岬との姉妹岬締結と両国の友好関係を記念して銚子ぽるとがる友好協会などが平成5年に建立しました。
高さ2メートルの記念碑はポルトガル産のローズオーロラと呼ばれる大理石を使用しています。
【所在地】犬吠埼(灯台前園地)
第二次世界大戦中、不幸にして戦火を交えた日本とフィリピンの両国が互いの恩讐を越えて、永く世界の平和を祈念し、両国の戦争犠牲者の慰霊と、将来の両国の親善を目的として、昭和33年(1958年)に完成しました。
計画の際に全国の適地を検討した結果、眼下に開ける太平洋を隔てて、途中さえぎるものがなくフィリピンと対峙していることから銚子市の愛宕山が最適地として選ばれました。
碑の斜塔は「友愛の炎」を表し、フィリピンのルソン島にあるマヨン山(標高2,463メートル)に向かって建っています。
ちなみに銚子市と姉妹都市協定を結んでいるレガスピー市はマヨン山の麓の街です。
碑の本体部分にはフィリピンのガルシア大統領のサインと岸信介総理大臣の題字が刻まれています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘店防寒敷地内)
愛宕山の頂上に設置されている三角点は一等三角点「高神村」という名称で、明治25年(1892年)に設置されました。
花崗岩でできた標石の中央は、地球上における位置と高さを正確に表しています。
北緯35度42分11秒0300
東経140度51分24秒4078
標高73.62メートル
三角点は土地測量の基準になるもので、土地の調査や土木工事など広くまちづくりに利用されています。
また、三角点を定期的に測量することで土地の変動を知ることができ、地震予知の基礎的な資料にもなっています。
【所在地】天王台(愛宕山山頂)
港町の銚子をらしくイカリをデザインした日時計のモニュメントが設置されています。
【所在地】天王台(ふれあい広場内)
この場所には昭和39年まで銚子市立高神小学校が建っていました。
現在は四季折々の花を楽しめる公園になっています。
【所在地】天王台(ふれあい広場内)
この場所は夫婦ケ鼻(めどがはな)と呼ばれていて、かつて海に突き出す高さ20mほどの断崖の岬がありました。
明治41年(1908年)5月16日に平磯台(現在の夫婦ケ鼻)に日本で最初の無線電信局が開設されました。
同年5月27日には横浜からアメリカのシアトルへ向けて太平洋を航行中の丹後丸との間で無線通信に成功しました。
これが日本で最初の無線電報を取り扱った日となりました。
昭和15年(1940年)に逓信省が現在の銚子ポートタワー駐車場の一角に無線通信創業之地碑を建立しました。
【所在地】川口町2丁目(銚子ポートタワー駐車場内)
母子河童像は「銚子かっぱ村」の開村10周年を記念して平成7年(1995年)に建立されました。
銚子かっぱ村は伝説の生きものである河童に魅せられた人達によって結成されました。
河童像が建つ中央町の利根川沿岸は荒野(こうや)と呼ばれ、大新河岸という船着場があり、江戸時代には干鰯(ほしか)や米、醤油などを高瀬舟に積んで江戸まで運ぶ拠点として賑わいました。
「大新河岸の親子河童」という民話が残っており、昔から河童は船を水難から守ってくれる存在として語り継がれています。
【所在地】中央町(とん膳銚子店前)
明治19年(1886年)2月15日、東京師範学校(現在の国立筑波大学附属中学校)の生徒90人が徒歩で東京を出発。
習志野、佐倉、成田、佐原を経由して5日後に銚子へ到着しました。
銚子では海浜で実習を行い、帰路は八日市場、東金、千葉を経て25日に東京へ戻りました。
この11日間の遠足が日本最初の修学旅行であり、その到達の地が銚子であることが公益財団法人全国修学旅行協会が編纂した「修学旅行の変遷と意義」に記されています。
令和元年(2019年)に銚子商工会議所によって建立されました。
【所在地】西芝町(JR銚子駅前)
太平洋岸自転車道は千葉県銚子市(JR銚子駅前)から神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、和歌山県の太平洋沿岸を通り、和歌山市(加太港)に至る延長約1,400キロメートルの自転車道です。
その出発地となるJR銚子駅前には千葉県のマスコットキャラクター「チーバくん」が自転車に乗ったモニュメントが設置されています。
【所在地】西芝町(JR銚子駅前)
国木田独歩は明治4年(1871年)に銚子で生まれた詩人・小説家です。
この記念碑は彼の没後100年を記念して、平成20年(2008年)に国木田独歩の会と国木田独歩百年忌記念事業実行委員会によりJR銚子駅前ロータリー内に建立されました。
【所在地】西芝町(駅前ロータリー内)
このモニュメントは植村公雄の作品で、銚子駅前シンボルロード整備事業で平成5年(1993年)にJR駅前広場のロータリー内へ設置されました。
植村公雄の作品で、豪快な海と発展する銚子市を表現しています。
(作者のコメント)
「海はいつも私たちの前に、そして私たちの中にある。海には思い出が満ち満ちている。私たちの心の姿そのままだ。限りなくひろがり、旅だち、流れ、うねり、そして輝く。太古から少しも変わることがない。海は自由な心の鏡だという。海を前にして、私たちは、ひとりひとり“自画像”を描くことになる。」
【所在地】西芝町(駅前ロータリー内)
このモニュメントは植村公雄の作品で、銚子駅前シンボルロード整備事業で平成5年(1993年)に河岸公園そばのポケット広場へ設置されました。
(作者のコメント)
「全ての生命の母ともいえる海は、その紺青の輝き、明るさ、絶えまのない動き、はるか遠くから運ばれてきたさわやかな大気等によって、私たちの心を自由に、豊かにしてくれる。その開かれた世界を前にして、人々は夢を抱き、港の街は活気づき、樹々は緑濃く、どんな生命も生き生きと活動し始める。三つの形は、そんな自由な生命の輝き、夢、喜び、躍動、たわむれ等を表している。」
【所在地】中央町(ポケット広場内)
濱口梧陵は和歌山県有田郡広川町の出身でヤマサ醤油株式会社の7代目社長です。
梧陵は実業家としてだけでなく防災・防疫の分野でも優れた業績を残しました。
中でも安政元年(1854年)の安政南海地震の際に、津波から村人を救うために稲むらに火を放ち高台への避難を誘導し多くの命を救った逸話は、「稲むらの火」として小学校の教科書に取り上げられ、地震が発生した11月5日は国連の「世界津波の日」に制定されています。
また、安政5年(1858年)には、江戸でコレラが大流行した際に銚子から医師を派遣し防疫を学ばせたり、焼失した江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)の再建のために大金を寄付するなどの支援を尽くしました。
紀徳碑は明治30年(1897年)に有志の手によって建立されましたが、碑文は梧陵と親交のあった勝海舟が彼の死を悼んで捧げたものです。
【所在地】妙見町(双葉小学校南側踏切そば)
庄川杢左衛門は高崎藩から飛び領地である銚子の代官でした。
銚子赴任中の天明3年(1783年)に浅間山の大噴火による「天明の大飢饉」が発生した際、藩主に無断で蔵の米や金品を領民に配給し、その責任を取って自害したと言い伝えられています(他に病死説もあります)。彼の機転と行動力により多くの人命が救われました。
この碑は文政6年(1823年) 杢左衛門の三十三回忌に高神村の名主と村人たちが彼の遺徳を後世に伝えるために浄財を出し合って建立しました。
【所在地】高神原町(都波岐神社向かい)
昭和20年(1945年)に米軍の空襲により中心市街地の大部分が焼失し多くの人命が奪われました。
翌年から千葉県と銚子市は土地区画整理事業による戦災復興計画を樹立し、防災を重視した市街地形成と交通網の整備を実施しました。
この記念碑は昭和57年(1982年)に戦災復興事業の完成を記念し建立されました。
【所在地】末広町(末広町公園内)
県道銚子外川港線の末広ロータリーにはカタツムリと灯台のモニュメントがあります。
いずれも交通安全宣言都市を記念し、交通安全を啓発するために設置されたものですが、現在、灯台のモニュメントには明るい選挙推進の標語が表示されています。
【所在地】東芝町(末広ロータリー内)
クースベイ市はアメリカ合衆国オレゴン州の太平洋に面した都市で、豊かな自然環境に恵まれ、基幹産業が農業と水産業であり、漁港と港湾を有するなど銚子市と共通点が多いことから姉妹都市協定を締結しました。
この記念碑は昭和58年(1983年)に姉妹協定書の締結を記念して建立されたもので、クースベイ市の英雄スティーブ・ローランド・プリフォンテーンをたたえ、「躍動」「力」「努力」を象徴しています。
クースベイ市にも同型の記念碑が設置されています。
両市の友好親善を図るため、中央みどり公園は「クースベイパーク」と命名されました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園内)
プリフォンテーンは銚子市の姉妹都市であるアメリカオレゴン州クースベイ市で生まれ、陸上競技の中長距離選手として活躍し、数多くの全米記録を樹立しましたが、24歳の若さで事故のため亡くなりました。
クースベイ市の誇りであるプリフォンテーンの献身と偉業をたたえて記念碑を建立しました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園内)
江戸時代の中期に、この一帯は高崎藩の飛び領地で陣屋が置かれ、明治時代の廃藩置県に至るまで約150年にわたり郡奉行と2人の代官が高崎から赴任していました。
「旧陣屋跡」と刻まれた碑は、上皇陛下と上皇后陛下の御成婚を記念して、昭和34年(1959年)に陣屋町公園の北東端に建立されました。
題字は当時の内閣総理大臣だった岸信介の揮毫です。
【所在地】陣屋町(陣屋町公園内)
陣屋町公園は江戸時代中期に銚子陣屋が置かれていた場所で、地元市民有志による陣屋町史跡公園化実行委員会が結成され、公園を史跡として後世に遺す活動が行われました。
その一環として公園内に史跡記念碑を建立することになり、平成19年(2007年)に銚子賞の選定を受けて記念碑が設置されました。
【所在地】陣屋町(陣屋町公園内)
オランダ人技師リンドは明治政府の招きにより明治5年(1872年)に来日し、日本各地の河川や港湾事業に従事しました。
飯沼水準原標石は水準測量(高さを測る測量)を行う際の原点となる点で、利根川や江戸川の水準測量を開始するときにリンドによって設置されました。
これを基準に日本水位尺が定められ、河川計画の基準高になっています。
平成27年(2015年)に近代測量の出発点となる重要な記念碑と評価され、公益社団法人日本土木学会の選奨土木遺産に認定されました。
【所在地】馬場町(飯沼観音境内)
銚子はね太鼓保存会は演奏技術を後世に伝えるため同志が集い昭和50年(1975年)に結成されました。
銚子はね太鼓は、太鼓を二人の打ち手が担ぎ上げ、首とあばらで太鼓を支え、打っては跳ね、跳ねては回り、太鼓もろとも宙に舞います。
極めつけはねかせ打ちで、打ち手がもう一人をねかせるように地に這わせて太鼓を打ちまくります。
正に黒潮おどる海の男の力と技の太鼓です。
この碑は、銚子はね太鼓の響きとともに伝統を持続しての銚子観光への功績を記念・研刻し後世に伝えるため有志により建立されました。
【所在地】飯沼町(飯沼ロータリー西わき)
山本鶴太郎は嘉永4年(1851年)3月18日に宮崎県で生まれ、千葉師範学校に学び明治11年(1878年)1月の卒業と同時に当時の飯沼村飯貝根小学校に奉職しました。
明治20年(1887年)には飯沼尋常小学校の校長となり、明治45年(1912年)6月に飯沼高等小学校の校長に就任するまで35年間にわたり同校に勤務し、保護者の篤い信頼を得ながら当時最も困難といわれていた学校の統廃合と校舎の新築に奔走し、飯沼、清水、明神の各小学校を整備するなど銚子市の教育の礎を築きました。
鶴太郎の没後15年に当たる昭和3年(1928年)に教え子らの手によって清水小学校の校庭に胸像が建立されましたが、太平洋戦争の際に供出され、昭和32年(1957年)11月に教え子や遺族の協賛と銚子市の助成を得て元の飯沼小学校跡地である後飯町公園に再建されました。
【所在地】後飯町(後飯町公園内)