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市内各地で見られる石仏や道祖神、伊勢講などの記念碑、板碑などは掲載していません。
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「待てどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
今宵は月もでぬそうな」
竹久夢二は明治43年(1910年)の夏に家族と海鹿島の宮下旅館へ避暑に訪れます。
その隣家の三女=長谷川カタに恋心を寄せ君ケ浜へ散歩に連れ出します。
翌年再び海鹿島を訪れると彼女は既に嫁入りしていました。宵に咲き一夜で花を終える宵待草に自身のひと夏の恋を重ねて創作したといわれています。
絵画と詩の融和を夢二のように表現し得た作家は稀で「大正の歌麿」と呼ばれました。
大正7年に多忠亮(おおのただすけ)が作曲し全国に歌が流行しました。
この詩に登場する宵待草は銚子市の花に指定されているオオマツヨイグサではなくマツヨイグサですが、どちらの花も君ケ浜に自生しています。
夢二は読売新聞への連載の中で、数回訪れた銚子の風土や伝説を「涼しき土地」という題名で紹介しています。
【所在地】海鹿島町
地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)
「なつかしき わが故郷は 何処ぞや
彼処にわれは 山林の児なりき」
国木田独歩(本名=哲夫)は明治4年(1871年)に銚子で生まれた詩人・小説家です。
通説では、銚子沿岸で難破した播州龍野藩の御用船・神龍丸に乗っていた同藩士・国木田専八と飯沼観音前の吉野家旅館の女中・淡路まんとの間に生まれたとされています。
独歩は4歳まで銚子で過ごし、上京後は東京下谷で両親と暮らしますが、結核を患い36歳の若さで生涯を終えます。
明治26年、33年、38年に銚子を訪れています。
彼の詩集『独歩吟』からの有名な一節「山林に自由在す」が刻み込まれた巨象が横たわるような岩石は「礫岩(れきがん)」で約1億3000万年前の中生代白亜紀のものです。
【所在地】海鹿島町
地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)
「大海を 飛び出づるごと 初日の出」
小川芋銭(うせん/本名=茂吉)は慶応4年(1868年)に江戸で生まれた日本画家です。
大正12年に初めて銚子を訪れ海鹿島の篠目(ささめ)別荘に滞在。
翌年に別荘を「潮光庵」と名付けてアトリエを増築し、以降晩年の名作が次々とここから生まれました。
海鹿島海水浴場の南にある丸山の岩肌に刻まれた句は、昭和8年(1933年)に明仁親王殿下(上皇陛下)の生誕を祝って詠んだものです。
【所在地】海鹿島町(海鹿島海水浴場わき)
地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)
「朝まだき 彼方の岸は アメリカと
聞きて爪立つ おばしまのはし」
尾崎咢堂(がくどう/本名=行雄)は安政5年(1858年)に神奈川県で生まれました。
明治23年第一回総選挙以来25回当選し国会議員を務め、明治36年に東京市長になりました。
この歌は真ん中の行から左、最後に右の順に読みます。
昭和14年(1939年)に銚子咢堂会の招きで銚子を訪れ、瑞鶴荘(旧伏見宮家別邸)に宿泊した際に詠んだものを2年後に改作、揮毫した書を同会に託しました。
真珠湾攻撃の2カ月前で、「爪立つ」という言葉に日米開戦を恐れていた咢堂の心情が読み取れます。
【所在地】海鹿島町
地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)
犬吠岬旅情のうた
「ここに来て をみなにならひ
名も知らぬ草花をつむ
みづからの影踏むわれは
仰がねば 灯台の高きを知らず
波のうねうね ふる里のそれには如かず。
ただ思ふ 荒磯に生ひて松のいろ
錆びて黝(くろ)きを
わがこころ 錆びて黝きを。」
佐藤春夫は明治25年(1892年)和歌山県生まれの詩人・小説家です。
明治44年に銚子を訪れた時の作品です。
【所在地】犬吠埼(絶景の宿犬吠埼ホテル駐車場わき)
「わかれても 故郷の海の あゐいろが
目にあり秋よ さびしくあるかな」
尾張穂草(すいそう/本名=真之介)は銚子市黒生町の製瓦業を営む家に生まれました。
東京へ出て講談社の取締役や顧問のほか日本出版クラブ常任理事、日本書籍出版協会相談役などの要職を務めました。
彼は郷里の銚子公正図書館へ多数の児童図書を寄贈し「穂草文庫」が作られています。
この歌は処女歌集『白砂集』(大正4年刊)中の一首で22歳の作品です。
穂草の古希を祝って銚子産の安山岩に刻まれました。
本人はこの作品よりも20歳ころに東京へ出で勉強したくて仕方なかった思いを詠んだ
「秋一夜 なぎさの家に 脱走を たくらむ子あり 知らで鳴く虫」
を選びましたが故郷へ建てる歌碑にはふさわしくないため取り止めたそうです。
【所在地】犬吠埼(絶景の宿犬吠埼ホテル駐車場わき)
「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」
高浜虚子(きょし/本名=池内清)は明治7年(1874年)に愛媛県松山市で生まれた俳人です。
生家の背中合わせに住んでいたのが師匠の正岡子規で、俳号の「虚子」は子規が清をもじって名付けたものです。
この句は昭和14年に銚子を訪れた際に作られ、句碑は銚子ホトトギス会が建立しました。
【所在地】犬吠埼(犬吠埼マリンパーク向かい)
「枯れ枝に からすのとまりけり 秋の暮」 はせお
この句は松尾芭蕉が37歳の時の作品で、つるべ落としの秋の陽が西山に傾くころ、ふと見上げた大木の枝に葉が一枚もなく、一羽のカラスがとまっているのがなんともいえず淋しいという意味だそうです。
句碑は弘化2年(1845年)に銚子の豪商で俳人の六代目大里庄次郎(俳号は桂丸)と野崎小平次が松尾芭蕉を追慕して建立しました。
【所在地】春日町(浄国寺境内)
此臺乃清風たゝちに心涼しく
西方仏土もかくあらんやと
「ほととぎす 爰(ここ)をさること 遠からず」 一茶坊
浄国寺の本堂の裏手はかつて望西台と呼ばれ利根川を望む日観亭という庵がありました。
明和年間から文化・文政年間(1764年から1829年)に小林一茶や渡辺崋山など数多くの文人墨客が訪れています。
平成17年(2005年)に浄国寺と檀徒総代、鴎俳句会などにより建立されました。
【所在地】春日町(浄国寺境内裏手)
「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」
天保12年(1841年)に江戸の豪商鈴木金兵衛(俳号古帳庵)が、俳諧の友である銚子の豪商田中玄蕃や野崎小平次らに招かれたときに詠まれた句で、今では銚子の特徴を表している俳句として広く親しまれています。
句碑には妻である古帳女の「行き戻り 瓢を冷やす 清水哉」という句も一緒に刻まれています。
【所在地】馬場町(円福寺境内)
「磐(いわ)はしる 外川の滝のむすぶ手も
しばしはよどむ 淀むせもあれ」
源俊頼は金葉和歌集の選者だったといわれていますが、銚子との関係は不明です。
昭和32年(1957年)に香取神宮の宮司で歌人の中臣大直(本名=額賀大直)の書を刻み、外川の有志の手で建立されました。
中臣は昭和天皇に和歌の手ほどきをした人物でもあります。
歌碑の裏側には「此の歌文字に誤りあるやう思はれど其盡(そのまま)記したり 香取神宮宮司 中臣大直」と刻まれています。
郷土史家の研究によれば「いわはしるとかわの瀧もむすぶてに しばしはよどむ物とこそきけ」が本来の歌ではないかといわれています。
この歌の中に「とかわ」が出てくることから地元有志が建立に至ったものと推測されています。
【所在地】外川町1丁目(大杉神社境内)
「水明楼之址 蘇叟九十五」
水明楼はぎょうけい館跡地の南西に建つ旅館で、多くの文人墨客が宿泊しました。
明治29年(1896年)に小説家の富徳蘆花は東京都日本橋蛎殻町から船で利根川を下り銚子を訪れて、飯沼観音から犬吠埼へ磯めぐりを楽しみ水明楼に宿泊しています。
この碑は昭和32年(1957年)富徳蘆花の三十回忌の日に銚子文化遺跡保存会が建立しました。
碑の裏側には蘆花の『自然と人生』に収められた「枕を撼(うご)かす濤声(とうせい)に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「大海の出日」の一節が刻まれています。
【所在地】犬吠埼10293地先(ぎょうけい館跡地近く)
「鳥白く 春あけぼのゝ 君ケ浜」
有馬朗人(あきと)は昭和5年(1930年)に大阪府で生まれた物理学者・俳人・政治家です。
東京大学名誉教授などを歴任し文化勲章を受章しています。
銚子市立中央小学校(旧興野、現在は双葉小)に入学し3年生の2学期まで在学しました。
文部大臣だった平成11年に君ケ浜の地に句碑が建立されました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)
「日の暮れの 海がすきです 月見草」
この句碑は昭和62年(1987年)に好日俳句会銚子潮流支部によって建立されました。
【所在地】犬吠埼(旧マリンパーク前)
「風ノ大キナウナリト 利根川ノ川浪
潮クサイ君ト僕ノ目 前ニ荒涼タル
坂東太郎横タハル 黄瀛」
黄瀛(こうえい)は中国人の詩人で「銚子ニテ」という作品を残しています。
平成12年(2000年)に中央みどり公園の西側の芝生の中に「銚子ニテ」の一部を刻んだ詩碑が建立されました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園西側)