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文学碑・記念碑・モニュメント

最終更新日: 20210726

竹久夢二詩碑

竹久夢二詩碑 「待てどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
今宵は月もでぬそうな」

竹久夢二は明治43年(1910年)の夏に家族と海鹿島の宮下旅館へ避暑に訪れます。
その隣家の三女=長谷川カタに恋心を寄せ君ケ浜へ散歩に連れ出します。
翌年再び海鹿島を訪れると彼女は既に嫁入りしていました。宵に咲き一夜で花を終える宵待草に自身のひと夏の恋を重ねて創作したといわれています。
絵画と詩の融和を夢二のように表現し得た作家は稀で「大正の歌麿」と呼ばれました。
大正7年に多忠亮(おおのただすけ)が作曲し全国に歌が流行しました。
この詩に登場する宵待草は銚子市の花に指定されているオオマツヨイグサではなくマツヨイグサですが、どちらの花も君ケ浜に自生しています。
夢二は読売新聞への連載の中で、数回訪れた銚子の風土や伝説を「涼しき土地」という題名で紹介しています。
【所在地】海鹿島町

竹久夢二詩碑(レプリカ)

竹久夢二詩碑レプリカ 地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)

国木田独歩詩碑

国木田独歩碑 「なつかしき わが故郷は 何処ぞや
彼処にわれは 山林の児なりき」

国木田独歩(本名=哲夫)は明治4年(1871年)に銚子で生まれた詩人・小説家です。
通説では、銚子沿岸で難破した播州龍野藩の御用船・神龍丸に乗っていた同藩士・国木田専八と飯沼観音前の吉野家旅館の女中・淡路まんとの間に生まれたとされています。
独歩は4歳まで銚子で過ごし、上京後は東京下谷で両親と暮らしますが、結核を患い36歳の若さで生涯を終えます。
明治26年、33年、38年に銚子を訪れています。
彼の詩集『独歩吟』からの有名な一節「山林に自由在す」が刻み込まれた巨象が横たわるような岩石は「礫岩(れきがん)」で約1億3000万年前の中生代白亜紀のものです。
【所在地】海鹿島町

国木田独歩詩碑(レプリカ)

国木田独歩詩碑レプリカ 地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)

小川芋銭句碑

小川芋銭句碑 「大海を 飛び出づるごと 初日の出」

小川芋銭(うせん/本名=茂吉)は慶応4年(1868年)に江戸で生まれた日本画家です。
大正12年に初めて銚子を訪れ海鹿島の篠目(ささめ)別荘に滞在。
翌年に別荘を「潮光庵」と名付けてアトリエを増築し、以降晩年の名作が次々とここから生まれました。
海鹿島海水浴場の南にある丸山の岩肌に刻まれた句は、昭和8年(1933年)に明仁親王殿下(平成天皇)の生誕を祝って詠んだものです。
【所在地】海鹿島町(海鹿島海水浴場わき)

小川芋銭句碑(レプリカ)

小川芋銭句碑レプリカ 地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)

尾崎咢堂歌碑

尾崎咢堂歌碑 「朝まだき 彼方の岸は アメリカと
聞きて爪立つ おばしまのはし」

尾崎咢堂(がくどう/本名=行雄)は安政5年(1858年)に神奈川県で生まれました。
明治23年第一回総選挙以来25回当選し国会議員を務め、明治36年に東京市長になりました。
この歌は真ん中の行から左、最後に右の順に読みます。
昭和14年(1939年)に銚子咢堂会の招きで銚子を訪れ、瑞鶴荘(旧伏見宮家別邸)に宿泊した際に詠んだものを2年後に改作、揮毫した書を同会に託しました。
真珠湾攻撃の2カ月前で、「爪立つ」という言葉に日米開戦を恐れていた咢堂の心情が読み取れます。
【所在地】海鹿島町

尾崎咢堂歌碑(レプリカ)

尾崎咢堂歌碑レプリカ 地球の丸く見える丘ふれあい広場にレプリカが設置されています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘ふれあい広場)

佐藤春夫詩碑

佐藤春夫詩碑 犬吠岬旅情のうた
「ここに来て をみなにならひ
名も知らぬ草花をつむ
みづからの影踏むわれは
仰がねば 灯台の高きを知らず
波のうねうね ふる里のそれには如かず。
ただ思ふ 荒磯に生ひて松のいろ
錆びて黝(くろ)きを
わがこころ 錆びて黝きを。」

佐藤春夫は明治25年(1892年)和歌山県生まれの詩人・小説家です。
明治44年に銚子を訪れた時の作品です。
【所在地】犬吠埼(絶景の宿犬吠埼ホテル駐車場わき)

尾張穂草歌碑

尾張穂草歌碑 「わかれても 故郷の海の あゐいろが
目にあり秋よ さびしくあるかな」

尾張穂草(すいそう/本名=真之介)は銚子市黒生町の製瓦業を営む家に生まれました。
東京へ出て講談社の取締役や顧問のほか日本出版クラブ常任理事、日本書籍出版協会相談役などの要職を務めました。
彼は郷里の銚子公正図書館へ多数の児童図書を寄贈し「穂草文庫」が作られています。
この歌は処女歌集『白砂集』(大正4年刊)中の一首で22歳の作品です。
穂草の古希を祝って銚子産の安山岩に刻まれました。
本人はこの作品よりも20歳頃に東京へ出で勉強したくて仕方なかった思いを詠んだ
「秋一夜 なぎさの家に 脱走を  たくらむ子あり 知らで鳴く虫」
を選びましたが故郷へ建てる歌碑にはふさわしくないため取り止めたそうです。
【所在地】犬吠埼(絶景の宿犬吠埼ホテル駐車場わき)

高浜虚子句碑

高浜虚子句碑 「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」

高浜虚子(きょし/本名=池内清)は明治7年(1874年)に愛媛県松山市で生まれた俳人です。
生家の背中合わせに住んでいたのが師匠の正岡子規で、俳号の「虚子」は子規が清をもじって名付けたものです。
この句は昭和14年に銚子を訪れた際に作られ、句碑は銚子ホトトギス会が建立しました。
【所在地】犬吠埼(犬吠埼マリンパーク向かい)

松尾芭蕉句碑

松尾芭蕉句碑 「枯れ枝に からすのとまりけり 秋の暮」 はせお

この句は松尾芭蕉が37歳の時の作品で、つるべ落としの秋の陽が西山に傾く頃、ふと見上げた大木の枝に葉が一枚もなく、一羽のカラスがとまっているのがなんともいえず淋しいという意味だそうです。
句碑は弘化2年(1845年)に銚子の豪商で俳人の六代目大里庄次郎(俳号は桂丸)と野崎小平次が松尾芭蕉を追慕して建立しました。
【所在地】春日町(浄国寺境内)

小林一茶句碑

小林一茶句碑 此臺乃清風たゝちに心涼しく
西方仏土もかくあらんやと
「ほととぎす 爰(ここ)をさること 遠からず」 一茶坊

浄国寺の本堂の裏手はかつて望西台と呼ばれ利根川を望む日観亭という庵がありました。
明和年間から文化・文政年間(1764〜1829年)に小林一茶や渡辺崋山など数多くの文人墨客が訪れています。
平成17年(2005年)に浄国寺と檀徒総代、鴎俳句会などにより建立されました。
【所在地】春日町(浄国寺境内裏手)

古帳庵句碑

古帳庵句碑 「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」

天保12年(1841年)に江戸の豪商鈴木金兵衛(俳号古帳庵)が、俳諧の友である銚子の豪商田中玄蕃や野崎小平次らに招かれたときに詠まれた句で、今では銚子の特徴を表している俳句として広く親しまれています。
句碑には妻である古帳女の「行き戻り 瓢を冷やす 清水哉」という句も一緒に刻まれています。
【所在地】馬場町(円福寺境内)

源俊頼歌碑

源俊頼歌碑 「磐(いわ)はしる 外川の滝のむすぶ手も
しばしはよどむ 淀むせもあれ」

源俊頼は金葉和歌集の選者だったといわれていますが、銚子との関係は不明です。
昭和32年(1957年)に香取神宮の宮司で歌人の中臣大直(本名=額賀大直)の書を刻み、外川の有志の手で建立されました。
中臣は昭和天皇に和歌の手ほどきをした人物でもあります。
歌碑の裏側には「此の歌文字に誤りあるやう思はれど其盡(そのまま)記したり 香取神宮宮司 中臣大直」と刻まれています。
郷土史家の研究によれば「いわはしるとかわの瀧もむすぶてに しばしはよどむ物とこそきけ」が本来の歌ではないかといわれています。
この歌の中に「とかわ」が出てくることから地元有志が建立に至ったものと推測されています。
【所在地】外川町1丁目(大杉神社境内)

水明楼之址碑

水明楼之址碑 「水明楼之址 蘇叟九十五」

水明楼は現在のぎょうけい館の南西に建つ旅館で、多くの文人墨客が宿泊しました。
明治29年(1896年)に小説家の富徳蘆花は東京都日本橋蛎殻町から船で利根川を下り銚子を訪れて、飯沼観音から犬吠埼へ磯めぐりを楽しみ水明楼に宿泊しています。
この碑は昭和32年(1957年)富徳蘆花の三十回忌の日に銚子文化遺跡保存会が建立しました。
碑の裏側には蘆花の『自然と人生』に収められた「枕を撼(うご)かす濤声(とうせい)に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「大海の出日」の一節が刻まれています。
【所在地】犬吠埼(ぎょうけい館近く)

有馬朗人句碑

有馬朗人句碑 「鳥白く 春あけぼのゝ 君ケ浜」

有馬朗人(あきと)は昭和5年(1930年)に大阪府で生まれた物理学者・俳人・政治家です。
東京大学名誉教授などを歴任し文化勲章を受章しています。
銚子市立中央小学校(旧興野、現在は双葉小)に入学し3年生の2学期まで在学しました。
文部大臣だった平成11年に君ケ浜の地に句碑が建立されました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)

田原秀水句碑

田原秀水句碑 「日の暮れの 海がすきです 月見草」

この句碑は昭和62年(1987年)に好日俳句会銚子潮流支部によって建立されました。
【所在地】犬吠埼(旧マリンパーク前)

黄瀛(こうえい)詩碑

黄瀛(こうえい)詩碑 「風ノ大キナウナリト 利根川ノ川浪
潮クサイ君ト僕ノ目 前ニ荒涼タル
坂東太郎横タハル 黄瀛」

黄瀛(こうえい)は中国人の詩人で「銚子ニテ」という作品を残しています。
平成12年(2000年)に中央みどり公園の西側の芝生の中に「銚子ニテ」の一部を刻んだ詩碑が建立されました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園西側)

記念碑・モニュメントなど

涙痕の碑

涙痕の碑 早稲田大学出身の青年詩人である三富朽葉と今井白揚は大正6年(1917年)8月2日、遊びに来ていた銚子・君ケ浜で激しい波にのまれ溺死しました。
将来を嘱望された若い2人の詩人の不慮の死に朽葉の父・三富雪州は、一年後の命日に父母の悲嘆と永遠の追悼を刻んで涙痕(るいこん)の碑を建立しました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)

日本一早い初日の出モニュメント

日本一早い初日の出モニュメント 元日の前後10日間だけは地球の地軸の傾きにより犬吠埼が最も早く日の出を迎えます。(山頂と離島を除く)
毎年、元日には約6万人が犬吠埼一帯に押し寄せます。
君ケ浜しおさい公園には日本一早い初日の出モニュメントがあります。
初日の出が灯台の真上に差しかかった時、陽光がモニュメントの隙間から一筋の光となって石板のポイントを投影します。
光と影のアーテイスト宗政浩二の作品で平成15年に制作されました。
【所在地】君ケ浜(灯台下広場)

犬吠埼・ロカ岬友好記念碑

犬吠埼ロカ岬友好記念碑 ユーラシア大陸の東端にある犬吠埼と西端にあたるポルトガル共和国シントラ市のロカ岬との姉妹岬締結と両国の友好関係を記念して銚子ぽるとがる友好協会などが平成5年に建立しました。
高さ2mの記念碑はポルトガル産のローズオーロラと呼ばれる大理石を使用しています。
【所在地】犬吠埼(灯台前園地)

日比友愛の碑

日比友愛の碑 第二次世界大戦中、不幸にして戦火を交えた日本とフィリピンの両国が互いの恩讐を越えて、永く世界の平和を祈念し、両国の戦争犠牲者の慰霊と、将来の両国の親善を目的として、昭和33年(1958年)に完成しました。
計画の際に全国の適地を検討した結果、眼下に開ける太平洋を隔てて、途中さえぎるものがなくフィリピンと対峙していることから銚子市の愛宕山が最適地として選ばれました。
碑の斜塔は「友愛の炎」を表し、フィリピンのルソン島にあるマヨン山(標高2,463m)に向かって建っています。
ちなみに銚子市と姉妹都市協定を結んでいるレガスピー市はマヨン山の麓の街です。
碑の本体部分にはフィリピンのガルシア大統領のサインと岸信介総理大臣の題字が刻まれています。
【所在地】天王台(地球の丸く見える丘店防寒敷地内)

三角点

三角点 愛宕山の頂上に設置されている三角点は一等三角点「高神村」という名称で、明治25年(1892年)に設置されました。
花崗岩でできた標石の中央は、地球上における位置と高さを正確に表しています。
北緯35度42分11秒0300
東経140度51分24秒4078
標高73.62m
三角点は土地測量の基準になるもので、土地の調査や土木工事など広くまちづくりに利用されています。
また、三角点を定期的に測量することで土地の変動を知ることができ、地震予知の基礎的な資料にもなっています。
【所在地】天王台(愛宕山山頂)

日時計のモニュメント

日時計のモニュメント 港町の銚子をらしくイカリをデザインした日時計のモニュメントが設置されています。
【所在地】天王台(ふれあい広場内)

銚子市立高神小学校旧校地跡碑

銚子市立高神小学校旧校地跡 この場所には昭和39年まで銚子市立高神小学校が建っていました。
現在は四季折々の花を楽しめる公園になっています。
【所在地】天王台(ふれあい広場内)

無線通信創業之地碑

無線通信創業之地碑 この場所は夫婦ケ鼻(めどがはな)と呼ばれていて、かつて海に突き出す高さ20mほどの断崖の岬がありました。
明治41年(1908年)5月16日に平磯台(現在の夫婦ケ鼻)に日本で最初の無線電信局が開設されました。
同年5月27日には横浜からアメリカのシアトルへ向けて太平洋を航行中の丹後丸との間で無線通信に成功しました。
これが日本で最初の無線電報を取り扱った日となりました。
昭和15年(1940年)に逓信省が現在の銚子ポートタワー駐車場の一角に無線通信創業之地碑を建立しました
【所在地】川口町2丁目(銚子ポートタワー駐車場内)

母子河童像

母子河童像 母子河童像は「銚子かっぱ村」の開村10周年を記念して平成7年(1995年)に建立されました。
銚子かっぱ村は伝説の生きものである河童に魅せられた人達によって結成されました。
河童像が建つ中央町の利根川沿岸は荒野(こうや)と呼ばれ、大新河岸という船着場があり、江戸時代には干鰯(ほしか)や米、醤油などを高瀬舟に積んで江戸まで運ぶ拠点として賑わいました。
「大新河岸の親子河童」という民話が残っており、昔から河童は船を水難から守ってくれる存在として語り継がれています。
【所在地】中央町(とん膳銚子店前)

日本初の修学旅行到達の地碑

日本初の修学旅行到達の地碑 明治19年(1886年)2月15日、東京師範学校(現在の国立筑波大学附属中学校)の生徒90人が徒歩で東京を出発。
習志野、佐倉、成田、佐原を経由して5日後に銚子へ到着しました。
銚子では海浜で実習を行い、帰路は八日市場、東金、千葉を経て25日に東京へ戻りました。
この11日間の遠足が日本最初の修学旅行であり、その到達の地が銚子であることが公益財団法人全国修学旅行協会が編纂した「修学旅行の変遷と意義」に記されています。
令和元年(2019年)に銚子商工会議所によって建立されました。
【所在地】西芝町(JR銚子駅前)

太平洋自転車道起点モニュメント

太平洋自転車道起点モニュメント 太平洋岸自転車道は千葉県銚子市(JR銚子駅前)から神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、和歌山県の太平洋沿岸を通り、和歌山市(加太港)に至る延長約1,400qの自転車道です。
その出発地となるJR銚子駅前には千葉県のマスコットキャラクター「チーバくん」が自転車に乗ったモニュメントが設置されています。
【所在地】西芝町(JR銚子駅前)

国木田独歩百年忌記念碑

国木田独歩生誕100年碑 国木田独歩は明治4年(1871年)に銚子で生まれた詩人・小説家です。
この記念碑は彼の没後100年を記念して、平成20年(2008年)に国木田独歩の会と国木田独歩百年忌記念事業実行委員会によりJR銚子駅前ロータリー内に建立されました。
【所在地】西芝町(駅前ロータリー内)

モニュメント「海を前にして・・・〜銚子〜」

シンボルロード海を前にして このモニュメントは植村公雄の作品で、銚子駅前シンボルロード整備事業で平成5年(1993年)にJR駅前広場のロータリー内へ設置されました。
植村公雄の作品で、豪快な海と発展する銚子市を表現しています。
(作者のコメント)
「海はいつも私たちの前に、そして私たちの中にある。海には思い出が満ち満ちている。私たちの心の姿そのままだ。限りなくひろがり、旅だち、流れ、うねり、そして輝く。太古から少しも変わることがない。海は自由な心の鏡だという。海を前にして、私たちは、ひとりひとり“自画像”を描くことになる。」
【所在地】西芝町(駅前ロータリー内)

モニュメント「海の賛歌〜自由な海に〜」

シンボルロード海の賛歌 このモニュメントは植村公雄の作品で、銚子駅前シンボルロード整備事業で平成5年(1993年)に河岸公園そばのポケット広場へ設置されました。
(作者のコメント)
「全ての生命の母ともいえる海は、その紺青の輝き、明るさ、絶えまのない動き、はるか遠くから運ばれてきたさわやかな大気等によって、私たちの心を自由に、豊かにしてくれる。その開かれた世界を前にして、人々は夢を抱き、港の街は活気づき、樹々は緑濃く、どんな生命も生き生きと活動し始める。三つの形は、そんな自由な生命の輝き、夢、喜び、躍動、たわむれ等を表している。」
【所在地】中央町(ポケット広場内)

濱口梧陵紀徳碑

濱口梧陵紀徳碑 濱口梧陵は和歌山県有田郡広川町の出身でヤマサ醤油株式会社の7代目社長です。
梧陵は実業家としてだけでなく防災・防疫の分野でも優れた業績を残しました。
中でも安政元年(1854年)の安政南海地震の際に、津波から村人を救うために稲むらに火を放ち高台への避難を誘導し多くの命を救った逸話は、「稲むらの火」として小学校の教科書に取り上げられ、地震が発生した11月5日は国連の「世界津波の日」に制定されています。
また、安政5年(1858年)には、江戸でコレラが大流行した際に銚子から医師を派遣し防疫を学ばせたり、焼失した江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)の再建のために大金を寄付するなどの支援を尽くしました。
紀徳碑は明治30年(1897年)に有志の手によって建立されましたが、碑文は梧陵と親交のあった勝海舟が彼の死を悼んで捧げたものです。
【所在地】妙見町(双葉小学校南側踏切そばf)

庄川杢左衛門頌徳碑

庄川杢左衛門頌徳碑 庄川杢左衛門は高崎藩から飛び領地である銚子の代官でした。
銚子赴任中の天明3年(1783年)に浅間山の大噴火による「天明の大飢饉」が発生した際、藩主に無断で蔵の米や金品を領民に配給し、その責任を取って自害したと言い伝えられています(他に病死説もあります)。彼の機転と行動力により多くの人命が救われました。
この碑は文政6年(1823年) 杢左衛門の三十三回忌に高神村の名主と村人たちが彼の遺徳を後世に伝えるために浄財を出し合って建立しました。
【所在地】高神原町(都波岐神社向かい)

戦災復興記念碑

戦災復興記念碑 昭和20年(1945年)に米軍の空襲により中心市街地の大部分が焼失し多くの人命が奪われました。
翌年から千葉県と銚子市は土地区画整理事業による戦災復興計画を樹立し、防災を重視した市街地形成と交通網の整備を実施しました。
この記念碑は昭和57年(1982年)に戦災復興事業の完成を記念し建立されました。
【所在地】末広町(末広町公園内)

交通安全都市宣言モニュメント

カタツムリと灯台 県道銚子外川港線の末広ロータリーにはカタツムリと灯台のモニュメントがあります。
いずれも交通安全宣言都市を記念し、交通安全を啓発するために設置されたものですが、現在、灯台のモニュメントには明るい選挙推進の標語が表示されています。
【所在地】東芝町(末広ロータリー内)

銚子市クースベイ市姉妹都市記念碑

クースベイ姉妹都市碑 クースベイ市はアメリカ合衆国オレゴン州の太平洋に面した都市で、豊かな自然環境に恵まれ、基幹産業が農業と水産業であり、漁港と港湾を有するなど銚子市と共通点が多いことから姉妹都市協定を締結しました。
この記念碑は昭和58年(1983年)に姉妹協定書の締結を記念して建立されたもので、クースベイ市の英雄スティーブ・ローランド・プリフォンテーンをたたえ、「躍動」「力」「努力」を象徴しています。
クースベイ市にも同型の記念碑が設置されています。
両市の友好親善を図るため、中央みどり公園は「クースベイパーク」と命名されました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園内)

スティーブ・ローランド・プリフォンテーン像

プリフォンテーン碑 プリフォンテーンは銚子市の姉妹都市であるアメリカオレゴン州クースベイ市で生まれ、陸上競技の中長距離選手として活躍し、数多くの全米記録を樹立しましたが、24歳の若さで事故のため亡くなりました。
クースベイ市の誇りであるプリフォンテーンの献身と偉業をたたえて記念碑を建立しました。
【所在地】新生町2丁目(中央みどり公園内)

飯沼陣屋跡碑

旧陣屋跡碑 江戸時代の中期に、この一帯は高崎藩の飛び領地で陣屋が置かれ、明治時代の廃藩置県に至るまで約150年にわたり郡奉行と2人の代官が高崎から赴任していました。
「旧陣屋跡」と刻まれた碑は、平成天皇と美智子様の御成婚を記念して、昭和34年(1959年)に陣屋町公園の北東端に建立されました。
題字は当時の内閣総理大臣だった岸信介の揮毫です。
【所在地】陣屋町(陣屋町公園内)

高崎藩銚子陣屋史跡記念碑

銚子陣屋史跡記念碑 陣屋町公園は江戸時代中期に銚子陣屋が置かれていた場所で、地元市民有志による陣屋町史跡公園化実行委員会が結成され、公園を史跡として後世に遺す活動が行われました。
その一環として公園内に史跡記念碑を建立することになり、平成19年(2007年)に銚子賞の選定を受けて記念碑が設置されました。
【所在地】陣屋町(陣屋町公園内)

飯沼水準原標石

飯沼水準原標石 オランダ人技師リンドは明治政府の招きにより明治5年(1872年)に来日し、日本各地の河川や港湾事業に従事しました。
飯沼水準原標石は水準測量(高さを測る測量)を行う際の原点となる点で、利根川や江戸川の水準測量を開始するときにリンドによって設置されました。
これを基準に日本水位尺が定められ、河川計画の基準高になっています。
平成27年(2015年)に近代測量の出発点となる重要な記念碑と評価され、公益社団法人日本土木学会の選奨土木遺産に認定されました。
【所在地】馬場町(飯沼観音境内)

銚子はね太鼓承継の碑

銚子はね太鼓承継の碑 銚子はね太鼓保存会は演奏技術を後世に伝えるため同志が集い昭和50年(1975年)に結成されました。
銚子はね太鼓は、太鼓を二人の打ち手が担ぎ上げ、首とあばらで太鼓を支え、打っては跳ね、跳ねては回り、太鼓もろとも宙に舞います。
極めつけはねかせ打ちで、打ち手がもう一人をねかせるように地に這わせて太鼓を打ちまくります。
正に黒潮おどる海の男の力と技の太鼓です。
この碑は、銚子はね太鼓の響きとともに伝統を持続しての銚子観光への功績を記念・研刻し後世に伝えるため有志により建立されました。
【所在地】飯沼町(飯沼ロータリー西わき)

伊能忠敬銚子測量記念碑

伊能忠敬銚子測量記念碑 江戸時代に正確な日本地図をつくった伊能忠敬は富士山の方位観測のため関東最東端の銚子を訪れています。
滞在9日目に犬若岬(ここから南東に約1kmの場所)から富士山の目視に成功しました。
この記念碑は平成25年(2013年)に銚子市制80周年記念事業として伊能忠敬測量記念碑建立実行委員会と伊能忠敬研究会によって建立されました。
【所在地】潮見町(銚子マリーナ海水浴場)

吉田松陰曾遊之地碑

松陰曾遊之地碑 碑文の漢詩は吉田松陰が21歳の嘉永4年(1851年)に、鹿島神宮を参詣した際に銚子を訪れて詠んだもので、銚子が外敵に対して防御体制が整っていないことを嘆いたものです。
この碑は昭和19年(1944年)に当時市内在住だった篠崎信山が私財を投じて建立しましたもので、川口神社の参道になっている階段の途中、三の鳥居のわきにあります。
【所在地】川口町2丁目(川口神社参道)

紀国人移住碑

紀国人移住碑 江戸時代に多くの紀州人が銚子へ移住して、本格的な漁業や醤油産業など銚子の発展に大きく寄与しました。
その功績を讃えるため、紀州人を祖先に持つ人たちの集まりである木国会が、明治36年(1903年)に妙福寺の境内に建立したものです。
【所在地】妙見町(妙福寺境内)

翔天の碑

翔天の碑 この碑が建っている場所には、昭和11年(1936年)から昭和20年(1945年)の終戦まで下志津陸軍飛行学校分教場がありました。
昭和19年(1944年)11月には陸軍の特攻隊(特別攻撃隊)の18人が出撃し、フィリピンのレイテ島で17人が戦死しました。
翔天の碑は平成5年(1993年)に市内在住のカメラマンが中心となり集められた浄財によって建立されました。
【所在地】春日台町

濱口吉兵衛銅像

濱口吉兵衛銅像 濱口吉兵衛は現在の和歌山県有田郡広川町の出身で、大正2年(1913年)に銚子遊覧鉄道株式会社と銚子ガス株式会社の社長に就任。
大正9年(1920年)には銚子醤油株式会社社長となりました。
貴族院議員としても活躍しますが、遭難が後を絶たない銚子漁港の整備を関係方面に訴え続けたことにより国庫補助による県営事業が実現。
日本屈指の漁港に発展することとなりました。
銅像は昭和12年(1937年)に建立されましたが、昭和18年(1943年)に太平洋戦争の際に金属類回収令で軍事供出されてしまったため、昭和30年(1955年)に市制施行20周年記念事業として再建されました。
【所在地】新生町1丁目(新生浜公園)

小野田周斉頌徳碑

小野田周斉頌徳碑 小野田周斉は現在の和歌山県有田市の出身で医者でした。
明治24年(1891年)に創設された銚子病院に招かれ院長に就任。
千葉県議会議員として4期15年間にわたり地方行政の発展に寄与しました。
銚子漁港の修築事業では、衆議院議員だった濱口吉兵衛を助けて東奔西走した結果、国庫補助による千葉県営事業の実現につながりました。
この頌徳碑は昭和30年(1955年)に市制施行20周年記念事業として建立されました。
【所在地】新生町1丁目(新生浜公園)

濱口梧洞銅像

濱口梧洞銅像 ヤマサ醤油10代目社長だった濱口梧洞(儀兵衛)は、貴族院議員として国政に尽力するほか全国醤油組合理事長や全国醤油統制組合株式会社社長を歴任しました。
財団法人公正会を組織し、大正13年(1924年)に巨万の私財を投じて公正会館を建設しました。
昭和23年(1948年)に銚子市に寄付され公正市民館と名付けられました。
昭和32年(1957年)に開館30周年を記念して、銚子市により建物の前に銅像が建立されました。
【所在地】新生町1丁目(中央コミュニティセンター前)

海難漁民慰霊塔

海難漁民慰霊塔 この慰霊塔は海難事故防止の願いを込めて昭和35年(1960年)に建立されました。
慰霊塔の題字は当時の岸信介内閣総理大臣の揮毫によるものです。
塔が建つ千人塚は宝永3年(1706年)に観音像が、享保10年(1725年)に地蔵が建立され、文化13年(1816年)には浄土宗の高僧・徳本上人を招請して法要を営み塔を建立したという記録が残り、少なくても300年以上前から供養の地であり墓所でもあったと考えられます。
【商材地】川口町2丁目(仙人塚)

美加保丸遭難の碑

美加保丸遭難の碑 慶応4年(1868年)8月19日、榎本武揚が率いる幕艦8隻が江戸から箱館へ向かう途中、房総沖で暴風雨に遭い、その一隻の美加保丸が5日間漂流し黒生海岸で難破沈没し乗組員13人が亡くなりました。
明治15年(1882年)に美加保丸の生存者や地元有志などにより「南無阿弥陀佛」と彫られた墓標が建てられ、その右手前に昭和13年(1938年)に多数の寄付によって美加保丸遭難の碑が建立されました。
【所在地】黒生町(とんび岩前)

崎山治郎右衛門碑

崎山治郎右衛門碑 崎山治郎右衛門は和歌山県日高郡由良町の出身で、明暦2年(1656年)に銚子へ来ました。
万治元年(1658年)に外川漁港の築港を開始し、さらに碁盤目状の街区を整備し紀州から人々を呼び寄せました。
銚子漁港が整備されるまで外川漁港が漁業の中心地でした。
イワシの豊漁により綿花栽培の肥料として需要が大きかった干鰯(ほしか)が利根川を経て江戸に運ばれ大繁盛しました。
この碑は崎山治郎右衛門の先駆者としての偉業を誇りとする子孫らが発起人となり、昭和58年(1983年)に関係者によって建立されました。
石碑の土台になっている石は外川漁港の築港時に堤防に用いられたものです。
【所在地】外川町1丁目(大杉神社境内)

人魚像「浴光」

人魚像 この人魚像「浴光」は彫刻家の中川為延(1904-1967年)の作品で、小野田セメント株式会社(現在の太平洋セメント株式会社)から昭和31年(1956年)に銚子市へ寄贈されたものです。
作品は白色セメントを素材として高度な技術で作られていて、JR銚子駅前広場に設置され永く市民に愛されていましたが、銚子駅前通りシンボルロード整備事業の施工にともない平成4年に川口町の水産物即売センター「ウオッセ21」の敷地内へ移設されました。
その後、銚子マリーナ開業に合わせて、太平洋セメント株式会社の協力により修復され平成11年(1999年)にマリーナを望む現在の場所へ移転しました。
【所在地】潮見町(銚子マリーナ内)

御野立所碑

御野立所碑 明治44年(1911年)大正天皇が皇太子の時に、千葉県を行啓し千人塚付近の磯に立って奇岩や荒磯の風光明媚な景観に感銘を受けました。
その後、大正14年(1915年)に大正天皇の即位を記念して碑を建立しましたが、国の第三次漁港整備に伴い平成5年(1993年)に岩石公園の一角へ移設されました。
【所在地】川口町2丁目(岩石公園内)

しあわせ三像の2「貧乏がサル」(仲ノ町駅)

貧乏がサル 諸事万物を貧窮させる元凶の貧乏神に猿が乗った石造です。
猿は貧乏神を追い払う毘沙門天の化身にして福徳の神といわれ、猿の頭をなでると海運出世、商売繁盛のご利益があるといわれています。
平成19年(2007年)に株式会社ハドソンにより仲ノ町駅に建立されました。
【所在地】新生町2丁目(銚子電鉄仲ノ町駅構内)

しあわせ三像の3「貧乏をトリ」(笠上黒生駅)

貧乏をトリ 諸事万物を貧窮させる元凶の貧乏神に雉(キジ)が乗った石造です。
雉の文字は雄弁に通じ、学問の神、弁財天の化身といわれ、雉の頭をなでると学問成就、才智縦横のご利益があるといわれています。
平成19年(2007年)に株式会社ハドソンにより笠上黒生駅に建立されました。
【所在地】笠上町(銚子電鉄笠上黒生駅構内)

しあわせ三像の1「貧乏がイヌ」(犬吠駅)

貧乏がイヌ 諸事万物を貧窮させる元凶の貧乏神に犬が乗った石造です。
この犬は福禄寿の化身にして、幸運、子宝、長寿の神といわれ、犬の頭をなでると病気平癒、健康増進のご利益があるといわれています。
平成19年(2007年)に株式会社ハドソンにより犬吠駅に建立されました。
【所在地】犬吠埼(銚子電鉄犬吠駅構内)

関東最東端の海鹿島駅碑

関東最東端の駅 銚子電鉄海鹿島駅は関東最東端の鉄道駅です。
駅舎の前には「関東最東端の海鹿島駅」と書かれた碑が建っています。
【所在地】海鹿島町

「笑顔の塔」モニュメント

笑顔のモニュメント 銚子電鉄の終点である外川駅を降りると、明るい色合いの「笑顔の塔」が目に入ります。
高さ3.2mのモニュメントには花や緑のほか太陽と月が描かれています。
このモニュメントは外川駅の命名権を取得した早稲田ハウスが平成28年(2016年)に銚子電鉄へ寄贈したものです。
【所在地】外川町(銚子電鉄外川駅)
【おことわり】
市内各地で見られる石仏や道祖神、伊勢講などの記念碑、板碑などは掲載していません。
【おねがい】
掲載内容に誤りやお気づきの点がありましたらお知らせください。

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